『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』ゲスト デヴィ夫人母国インドネシアで赤っ恥?
『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』ゲスト デヴィ夫人母国インドネシアで赤っ恥?
テレビ東京系にて12月30日(土)23時24分より放送される『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』で、インドエシアの元スカルの大統領夫人だったデヴィ夫人が、インドネシア訪れて・・・
この記事の構成
『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』
テレビ東京系にて12月30日(土)23時24分より放送される『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』は、有名人が海外で自分の事を知っている人を探し、自ら宿泊交渉もしなければならない過酷旅バラエティ。
デヴィ夫人はインドネシア、安藤美姫はカナダ、サンシャイン池崎は台湾を訪れる。
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『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』 ゲスト デヴィ夫人母国インドネシアで赤っ恥?
インドネシアが母国のデヴィ夫人は、ジャカルタへ。
スカルノ元インドネシア大統領夫人だった彼女。
当然街の人はみんな知っている……と思いきや、待ち受けていたのは意外な結末だった。
一体デヴィ夫人を待ち受けると試練とは?以外な結末ってなんだったんでしょうか?
結論から言うと、デヴィ夫人は、番組企画を完全に理解していないというか、全く無視して自分の旅行に番組スタッフを連れ回して、友人のディナーに行ったり、マッサージに行ったりと勝って放題!
まあ、デヴィ夫人のインドネシアでの知名度を見せびらかしただけのような番組でした。
『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』 ゲスト デヴィ夫人とは
今や、バラエティの顔みたいな存在のデヴィ夫人ですけど、デヴィ夫人は実は本名は「デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno)」と言います。
正式には、インドネシアでは「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)」と言います。
え?インドネシア人なの?
いえいえ、昭和15年に日本で生まれた、れっきとした日本人です。
そして、インドネシアのスカルノ大統領と結婚して、子供までいるんですよ!
知ってた?
ということで、デヴィ夫人の素顔を知らない人のために、おさらいしておきますね。
デヴィ夫人の経歴
15歳だった1955年(昭和30年)、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演[要出典]。
中学卒業後は、東京都立三田高等学校定時制部に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社したが、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちし続ける日々を送った。
1956年に父が亡くなった事に伴い高校を中退した後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。
1959年(昭和34年)、19歳のときに、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。
この一件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた暴力団関係者の児玉誉士夫が関わっていたとされる。
スカルノ大統領夫人になる
独立後間もない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。
インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になる。
しかし、同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母が亡くなった。
更にその2日後、セールスマンに全財産を騙し取られたうえ、母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男が、自宅アパートでガス自殺し、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にジャカルタの宮殿の一つに実弟の名をつけた。
この宮殿はのちに接収され、軍事博物館になっている。
スカルノ大統領が失脚すると
3年後の1965年(昭和40年)9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚、代わってスハルトが大統領となった。
スカルノは軟禁状態におかれ、デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。
スカルノの第2夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った。
1967年(昭和42年)3月11日、都内病院にて娘のカリナを出産する。
正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。
スカルノ大統領の8番目の子供であった。
デヴィ夫人もフランスへと亡命した。
スカルノ元大統領存命中にも関わらず数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はしなかった。
スカルノ大統領がなくなると
スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったとも、実際には死去時に遺産が与えられたとも言われている。
いずれにしてもその後のインドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与が行われた。
「社交界の華[要出典]」とも呼ばれたその容姿で多くの要人らと関係をもったという。
1980年(昭和55年)にはインドネシアへ戻り、石油関連事業を興した。
しかし、実際にはスカルノ体制崩壊とその後のスハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたという。
また、日本政府や日本の企業財閥側も、クーデターで失脚したスカルノ夫人を擁護することはなかったとされる。
1991年(平成3年)にアメリカのニューヨークへと移住する。
ここからインドネシアの第一線から退き、その後の政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し、現在に至っている。
その後は日本でタレントとして活躍する。
タレント的活動は1970年代より行っており、1974年に小学館の総合男性誌GORO創刊号にデイヴィッド・ハミルトン撮影のヌード写真が掲載されている。
まとめ
今回は、『俺のこと知ってる!?イン・ザ・ワールド』ゲスト デヴィ夫人母国インドネシアで赤っ恥?ということで、タレントのデヴィ夫人のことを掘り下げてみました。